SSブログ

風が強く吹いている [Book]

今日は台風の影響で、なみぞうもたく丸も学校は休校になった。できればおやじもこんな日には休みを取って、悪天候の中、外に出なくて済む幸せを噛みしめたいところだが、会議が4つ入っていてはそうもいかない。それにしても風が強かったな。というわけで、こんな本を思い出した。

風が強く吹いている

風が強く吹いている

  • 作者: 三浦 しをん
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/09/21
  • メディア: 単行本
2年くらい前に女房が図書館で借りてきて一度読んだ本だ。なみぞうが未読だったため、文庫化を機に買い求めた。おやじも女房も再読。たく丸は学校の図書室で借りて読んでいるので3度目という。なみぞうは、図書館で借りた時は表紙を見て読む気になれず、断念したらしい。確かに爽やかなスポーツ小説とは思えない表紙で、おやじも見たときは怯んだのだが、そんなことは意に介さない女房が真っ先に読んで面白いというので、続けておやじも読んだ。読んでから表紙を見直すと、これはこうでなければならないと思えてくるので不思議なものである。

初めて読んだときは、ちょっとありえない展開だと思いつつ、話の面白さに引きずられて読み終えた。再読して、本書のテーマである「チャレンジ」について考えさせられた。素人を集めて箱根駅伝を走るというのが、主人公ハイジのチャレンジだ。

映画RUDYでは、ノートルダム大に入ってアメリカンフットボールの試合に出るのが主人公の夢だ。大学に入るには学力が足りず、入れば入ったで、フットボール選手としては身長が決定的に足りない。そんな主人公のチャレンジを描いていた。

数学的にありえない〈上〉 彼らのチャレンジはいずれも成功するのだが、そのことよりもチャレンジする姿勢がたたえられるべきなのだろう。アダム・ファウラーの「数学的にありえない」の中に次のようなくだりがある。サーカスの象は、簡単な杭につながれている。力の強い象にとっては簡単に抜けるようなものだ。だからいつでも逃げ出すことができるのにそうはしない。これは、小象の時から同じ杭につながれていて、小象の力では抜くことができないくらいの強度を持たせてある。象はそれを憶えていて、大きくなっても抜くことができないと思い込んでいるためだ。とした上で、人の場合も、出来ないと思っていることは決してできない。やってみようとも思わないからだ。と、説く。チャレンジは、人ができないと思っていることを、出来ると信じるところから始まるんだな。

翻って自分の身において考えてみよう。と言っても、おやじが今さら趣味の範囲を超えてまでも何かに打ち込むといったことは考えにくいし、女房も同じだろう(多分)。だから子どもたちのことである。なみぞうやたく丸が、現実的ではないと思えるチャレンジをしたいと言ったとき、どういう対応が望ましいだろう。

おやじは、チャレンジはさせるべきだと思っている。チャレンジしないことは、将来に悔いを残すことになり兼ねないし、たとえ未達に終わろうと、その経験が無駄なものとも思えないからだ。自分の人生に責任を取れるのは自身だけだ。だから決定は本人がなすべきだ。親が出来るのはアドバイスだけだろう。そのアドバイスの観点で言えば、チャレンジを完遂しようが、未達に終わろうが、その後どうするかといったプランまで持った上でチャレンジして欲しいということだな。それではチャレンジにならないとか、打算的だとかそしられそうだが、おやじからすれば、計画のないチャレンジこそチャレンジとは言えんぞと思うのだ。

清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫) そうした意味で清兵衛と瓢箪(せいべいとひょうたん)を見直せば、瓢箪を叩き割ったり、絵を描くことを禁じようとしたりする父親の行動を一概におろかとも思えなくなってくる。子どもにとって勉強は、寝たり食ったりするのと同様、基本動作の一つである。親にとっては受けさせる義務がある。瓢箪を磨くことが清兵衛にとってのチャレンジだとはいえ、勉強を放棄してまで瓢箪に没頭するのを父親としては黙って見ている訳にもいくまい。その方法にはもちろん問題があって、あれでは何の解決にもならないんだけどね。


共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。